昭和51年01月19日 朝の御理解



 御理解 第86節
 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬといううが、女がようなければ家がもてぬ。」
 女が偉くなからなければいけない。賢くなからなければいけない。辛抱強うなからなければいけない。女はやさしゅうなからなければいけない。昔から日本の国は「女ならでは、夜も昼も明けぬ国だ」と言われます。かというて又色んな良くない事が起こる、危険が起こる、例えば三面記事をにぎわせうるような、事件などのいうなら悪事の影とか、そういう事件の影には必ず女があると言われておる。もう女ばっかしはどうにもしようがない。とにかく執念深い。もうもぞがりゃ登り上がる(笑い)。
 叩きゃ泣く(笑い)。というて殺せば迷うて出る(笑い)。というて昔から女という。とにかくその上げたり下げたりのようですけれどもね、そういう中に矢張り本当に「女がようなければ」というが、ならその世界の田地とまで言われる、その世界の田地を、田地を肥やしておかなねばならんとこう。ね、確かに良い奥さんの所ではご主人が良い。なら偉いご主人の所には、必ず奥さんが良い。
 どんなに偉そうな事を言うておっても、自分の所の家内ひとりも、自分の思う様に自由に使いきらん様なのでは駄目だ。よくあの政治家なんかにそれがありますね。それこそまるっきり自分一人で国を動かしよる様な事を言うかと思うと、自分の家内一人に持てあましとるという偉い人があるわけです。だからそげんとは偉くないと言う事です、ね。偉いというのはどんなに例えば、悪妻悪女と言われるようね女でもです、ね、主人のいうならば才覚というか、ね。
 力でいわば良い家内にしてこそ偉い主人である。ね、またそれと反対の事も言える。どんなにまぁワンマン的な主人であってもです、それにいわば仕えながらもです、ちゃんと握る所だけは握っておって、いうなら自分の心のままに主人が扱えれるような、女の方ならば偉いとです。ね、はあうちの家内はつまらんとか、主人はと言う様な事では、だから本当のいうならば、世界の田地ともまたその田地を肥やしておかねば、肥やすのは矢張り男の役目だと思う。
 主人がひょっとこに見える時には、私がお多福さんである事の自覚を持てと。ね、家内がお多福さんに見える時には、私がひょっとこである自覚に立たなければいけない。これは、それこそ昔から申しますように「釣り合わざるは不縁のもと」と言うのですから、ね、「もう、本当のこげな家内を持ったために一生が哀れ」と、一生連れ添わなければならないと言う所に、ね。
 私はそのいうならめぐりなら、めぐりの程度というものは同じ程度のものである、と分からせて頂いたら愈々そこから、ね、肥もしなければならない、また肥やしもしなければならないと言う事にも成って来ると思うです。御神訓に「子を生むは、我が力で生むとは思うな。みな親神の恵む所ぞ」というみ教えがあります。これは男もですけれども、女も私が力んで生むのではない。
 神様の「みな親神の親神の恵む所である」という恵まれておかげを頂いて事が成されるであり、一切が成り立つのであると言う事をです、これは男も女も自覚しなければいけません。「俺が山に行って芝を刈ってくるから」だけではない。「いいや私が川に行って洗濯をしよるから」というのではない。ね、その両方の事が出来る、その出来るその事も神様の恵まれる所のものである、という自覚が信心者にはいるのです。ね、そこから私は自ずと「あなたのおかげで。
 いやお前のおかげで」というものが出来る。そういう家庭に私は良いものが生まれ、良いものが育つと思います。うちのお母さんはつまらん。うちのお父さんはもうというその悪口の言い合いのような中に、良いものが育つはずがない。私は今日初めて気付かせて頂いたのですけれども、これは女性に対するだけのみ教えかと思うておった。86節所がそうではない。ね、「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかなければ」とこう。ね、肥やす役目は矢張り男だと。
 良い田地に良い種を蒔いて、初めて良いものが生まれるのである。女がまぁ名家老にならなければね、家の繁盛はない。という主人バカ殿様であってはでけません。ね、名君対する名家老であって、初めて愈々その城が繁盛する。家が繁盛する。先日のこの86節の中から頂いた御理解でしたけれども、「自分の心の中にも矢張り陰陽があり、いうなら男と女が同居しておる」と言う様な意味の御理解を頂きましたね。ですから男の中にも矢張り厳しさだけではない、いうなら優しさもなからにゃないかん。
 女の中にもただ女らしさだけではいけない、矢張り毅然とした所も、又なからなければいけない。そういう二つのものが心の中で合体して、初めて良いものが生まれるんだと言う訳です。愈々その心を肥やす。この頃十三日会の時に文男先生がお話をいたしておりました。ね、「活力と言う事が、この頃合楽では流行って、または活力素とか、ね、活力源とか言う事が言われる。
 どうしたならば、自分の心が生き生きとした有り難いものになれるか。大体活力活力という事をこの頃、親先生が言われるが、一体どう言う事かと質問を受けた時に、私は各返事をした」と言う事話しておりました。いわゆる合楽の御流儀である所の、いわば成り行きを大切にすると言う事。いうなら全ての事に御の字を付けるという頂き方。ね、そういういわば頂き方こそが、ね。
 今日の御理解でいうなら根肥やしになるのであり、ね、まぁ今日の御理解で言うならば、それが活力素になるわけである。いわゆる田地が愈々肥えてくるのである。所が言えば、それだけ簡単なのですけれども、なら成り行きを大事にすればよいのですね、全ての事に御の字をつけさえすればよいのですね。という又その原動力になるものが私は真心とか、ね、真とか言われる。その真とか真心かと真心とかいうものが実は難しい。そこでその真とは、真心とはと言う事に成る訳でありますが、ね。
 皆さんが今、一生懸命、信行なさっておられる「大祓信行」。ね、無条件に神様へ向けて、大祓いを奏上する。そういう例えば生き方の中から「真心とは」と言う事が分かってくる。ね、いうならば神様に交流する心です。「真心とは神様に交流する心」。一生懸命大祓いを奏上させて頂いとる時に、そこにいうならば欲もなければ徳もない。ただ有り難うして神様の前がはずれられんぐらいなる。
 愈々神様と仲良うできるという、その心が真心である。そんなら四六時中大祓いを上げとかならんと言う事ではなくて、ね、そういう真心を持って、ね、真を表わしていく。そういう心で家業の行に取り組ませて頂くのです。ね、そういう心の状態で、お互いの御用に使うて頂くと言う事になります。ね。私は今日合楽の場合、段々信心のこの進め方というものが、いつも実に神ながらである。まっ例えて申しますと去年あたりから、ね、表行と言う事が全廃になった。
 いわゆる形の行である水をかぶったり断食をしたりと言った様な事は、もう合楽では御法度になった。ね、そういう修行はもうしてはならない。それがいかにいうならば、まぁいうならば「百害あって一利なし」と言う様な事が、段々分かってきた。そこでお互いが心行一本に取り組ませて頂くと言うと言う様な事に成って来た。ね、そこで勿論心行もしておるのですけれども、なんとはなしに物足りないものを皆が感ずるのでる。どうかしたくて堪らんのである。
 そういう一年言う様の歳月が流れる間にです、ね、心行だけでは心もとない。どうとかなんとかいうならば修行らしい修行。それは本当言うたら、ね、昨日若先生が申しておりました。昨日あの池田さんが今度一週間、修行に参りました、大熊教会の親奥さんと若先生とそれからお嬢さんと、それから修行生の方と四人で送って来てもらっとたと。というて月例祭を頂いておられる。
 その月例祭を頂いた後に応接間でお茶でも差し上げながら、色々話しておるうちになんの事からか、若先生が申しておりましたが、例えば私の事をね「例えば、うちの親先生の場合なんかは、もうあくびが出ても、後は金光様ですからね。」と言う事を言っておる。ね。これは本気で心行が出来ておる時には、もうそれこそいつも自分の心の中には「生神金光大神様」が唱え続けられておる。「はあぁあぁあぁ。」というてあくびが出た後には「金光様」が出ておる。
 「どんなに雑談をしよっても、親先生が交じっておられる限り、必ず何時の間にか信心話になってしもうておる。」と言う事をまぁ言うておりましたが、心行とは本当いうたら、そのように素晴らしいものなんです。所が形に見えませんから、それをごまかす訳じゃないけども、お互いうかつにしておる事になります。そういう例えば心行心行もう心行一本やりできておる所に、この度のなら大祓い信行であります。
 もうそれこそある意味でです、いうならば本当に信心、神様に心から「なんとかしてと。良い信心を頂きたい。本当に良いおかげを頂きたいお徳を受けたい。」と心に念願しておる者ならば、もうそれこそ飛びつくようにして、この大祓い信行に皆さんが取り組んでおると言う事でございます。ね、本当に神様のね例えば表行。ね、はぁ例えば水をかぶったり、断食をしりというのにです、なら大祓い信行ちいうたら、なんか返って重荷になるような感じがしただろうと思うです。
 それを一年間なら一年間の間に全廃をした、ね。表行と言う事は、もうしてはいけないと言う事になってきた。「何かしたい」と言う所に、大祓い信行がうって出された。「本年はこの行に、いわば愈々取り組せて頂こう」と言う事になった。皆がそれこそ飛びつく様にこの行に、いうならば精魂を傾けさせて頂けれると言う様な事でも、本当に合楽神様のその演出というかね。
 本当そういうその弾みが付く様に、前のいうなら年から準備がしてあった。ね、「和賀心時代を創る」という時代から、「合楽示現活動に参画する」という。そして今年はいうならば「心行に取り組む」、いわゆる大祓い信行に取り組む。いわゆる大祓い信行に愈々取り組ませ頂くと言う事がです、いかにもです、それがなんかこう反対のような感じがせんでもないわけです。ね。
 「和賀心時代を創る」とえらい大きいな、いわばスロ-ガンが立てられた。ね、自分のいうならば心の中からね、また自分の周辺にです、その「和賀心時代を広げていこう。しかもそれを世界に広げていこう。」と言う様な大きな願いが打ち出された。そしてその時はその時で、それに皆が合点した。そして取り組んでみてその事が大変いわば難しいという、少しは空しさまでが出て来た様な感じであった。そして次にね「合楽示現活動に参画する」と言う事に成って来たら、これはいわば身近かになってきた。
 「合楽を示現する」いうならば、「神と氏子とが一緒に助かりおうていこう」という運動である。この事でも矢張り過去何十年間の椛目、合楽の信心を通してです、お導きと言う事を言うた事が無かった。ね、そこに合楽示現活動が打ち出されたのですから、ね、それこそ一時はそれがね、燎原のそれこそ火の如くこう広がっていった。所がですその「合楽示現活動に参画する」と言う事もです、そういう働きを神様から受けながらも、自分自身に今度は力の無い事に気付いてきた。
 示現を神様が示現を示して下さる程しのおかげを頂くためには、「これはもうちっと自分自身がおかげを受けなければならない。」と言う事に成って来た。そこへ持って来て、打ち出されたのが大祓い信行である。もう私はいかにも反対のごたる。大祓い信行があって、それから合楽示現活動があって、そして和賀心時代を創ると言ったごとあるけれども、実際は自分自身が愈々、自分の正体が分からなければ信心は出来ません。
 素晴らしい、どういう素晴らしい、ならその理想というものがです、それを実現していく事のためのならスロ-ガンが打ち出されて、次々とならその合楽示現活動と言う事によって、もう本当に今まで押さえに、押さえられておった「お導き」と言った様な事が、本気でなされる事になった。これが神様の一番お喜び頂けることだと言う事で、うんなら打って出たけれども、実際は成程ね多少は増えました。ね。
 例えばおかげの泉が三百ぐらいなのが、矢張りその倍以上も出るようになったというだけでも、矢張り示現活動のおかげではある。所が実際に示現活動をさせて頂いて、お互いが分からせて頂く事は、私がまだ、おかげの頂き足らない事である事、と同時にです私自身の力不足というものを、銘々が感じ出してきた所へ大祓い信行が打ち出された。ね。そこでなら大祓い信行によって、愈々真が、真心が分からせて貰う様になり、真を持って示現活動ができるようになり。
 そういうふうに思うてくる時に、本当に神様がいかに合楽と言う所にご期待が大きいか、と言う事を感じずにはおられません。愈々合楽にご縁を頂いておる方々達が、愈々力を受けて、愈々おかげを受けて、その力を持って、おかげを引っ提げてそして合楽示現活動と言う事になり、それがなら和賀心時代を創って行く所の、神様の願いに答え行く事になる。それにはまずは自分自身がね、いうならある意味では空しゅう、自分の我情我欲を外さなければならない。真にならなきゃならん真心に。
 それをですなら今度の心行によって、その小さい手本のような、見本のようなものを自分の心の中に頂く事が出来る様になって来た。ね、私はどんなに肥えるとか瘠せるとかとこう、例えば申しましてもです、瘠せきれたが人ね、いくら力んだ所で大した力はでらないと思う。その証拠に大相撲取りに細かつがおらんでしょが。「はぁ大きっかあれは相撲取りになるとによかろうね」と言うわけです。大きい大きのがねそこに、ね、いうならば技を覚え又は、それが愈々力仕事をするというか。
 力のでる稽古をさせてもろうて初めて偉大な力と言う事になるのです。まずは自分自身の心が肥えなければならないまず自分自身の心が豊かにならなければならない。その豊かな大きな心です愈々色んな問題をです文男先生が申しておりますように、ね、様々なその起きてくる問題を、もうそれこそいと簡単に頂けるようなね、おかげを頂かせて貰う事によってです、愈々心は豊かに肥えてくるのです。私は今日は今日の86節の、いわば是は女性だけに対するみ教えのように思うておったけどもそうではない。
 お互いがいうならば愛し合うというだけではなくて、お互いがいうなら肥やしおうて、ね、良い家老を目指す。又は良い名君をいうなら目指させて頂くという、そういう手立てを後半の所で聞いて頂いたのであります。ね、前半の所はまぁ世間一般の女、女性と言う事を聞いて頂いたんですけれども、信心させて頂く者は、愈々世界の田地とまで言われる、その心を肥やさなければならない。ね、そこから生みだされる所のいわば、真、真心という種が蒔かれて、ね。
 それが合楽示現活動ともなり、それが世界に和賀心時代を創っていこう、と言う様な大きな栄えにもなってこなければなりません「女」という字を「くノ一」と読みます。女忍者のことを「くノ一」というです。ね、だから女というのは(笑い)女という者は(笑い)もいかんかなぁ、女の方にですお願いさせて特に頂かなければならない事は、そういう不思議な働きを顕しうる内容を、特に強く持っておられると言う事です。ね、そこん所を教祖様は「女は家の家老じゃ」と仰しゃったのじゃないのでしょうかね。
   どうぞ。